Blue

先日、デレク・ジャーマン監督の『Blue』を見た。映画の最初から最後まで、スクリーン一面に青色が投影されるのみの前衛的な映画だ。デレク氏は、この映画製作時、エイズによる合併症で末期状態にあり、ほぼ失明の状態にあった。一面の青の中で彼はエイズに蝕まれていく自身の生活や、同じくエイズで死んでいった友人、そして社会のエイズへの反応に対して感情を吐露する。彼の読み上げる散文は幻想的だ。青の中に彼の見たであろう光景が浮かんでは消え、彼の精神的肉体的な痛みさえも実際に感じるほどであった。鑑賞しながら向かう場所のない感情でいっぱいになり涙した。

最近、身体がだるく1日布団の中で過ごしている。Twitterを見ているとそこには残酷な情報が広がっている。労働問題、沖縄の反基地デモ、稲田朋美南スーダンに関する答弁、塚本幼稚園、森友学園の幼児虐待とレイシズム……地獄のようだ。スマホから目を離し、窓へと目を向ける。青空。部屋の中では風と子供の声の他何も聞こえない。あまりに静かで感傷的になる。僕は何をしているんだろう。どこへ向かうのだろう。そんな言葉が頭によぎる。

この一面の空を前にして、僕はどこまでも無力だ。デレク・ジャーマンも同じことを思っただろうか。白濁していく色彩と追憶の青さを前にして。僕が社会を変えられるわけがない。だけど、僕は一介の表現者である。表現者として生きている。デレク氏がエイズに最後まで向き合ったように、この残酷な社会と純朴な空と賢明に向き合わなければならない。

芸術は何故崇高であるか。考えたことはあるだろうか。表現の責任を考えたことがあるだろうか。僕は思う。芸術家は表現を通して社会と向き合い、その中で生きる個人、そして自身を問わなくてはならないのだと。それが芸術家としての責任でありプライドなのだと僕は思う。それを完遂したとき、初めて芸術が崇高たり得るのだと。ゴッホピカソという1人の天才が芸術を残すのではない。社会が芸術を選ぶのだ。勿論、どこまでも社会とは共同体の幻想でしかない。もしかしたら、どこまでいっても独り相撲で終わるかもしれない。その覚悟の上で芸術家は社会を評論し問い続けなければならないのだ。そのアンサーを通して芸術家は社会を知り、自身を知り得るのだから。芸術は社会を変えられるか?そんな問い自体愚問だ。社会を変えるのは何処までも共同体を生きる私達だ。この不条理な空の青さを前にしても尚、僕は反抗しなければならない。

デレク・ジャーマンの『Blue』が芸術と呼ばれるのはつまりそういうことだろうと思う。

渡部夏樹