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”この世界の片隅に” ーリアルな戦争ー

 先日、従兄弟に誘われて"この世界の片隅に"を見に映画館に足を運んだ。随分前にこうの史代さんの原作を読んでいたので公開当初から関心はあったのだが、話題作を世間の熱が冷めてから見るような偏屈な僕なので映画館に向かってまで見たいとは思わなかった。従兄弟が誘ってくれなければ、もしかするとこの先何年も見ることもなかったかもしれない。 結論から言えば、素晴らしいの一言に尽きる映画だった。生々しい戦争を肌で空気で感じられる作品だった。映画館を出てから僕はあまりの衝撃と感動に言葉を失ってしまって従兄弟と何を話せばいいのか戸惑ってしまったくらいだ。キネマ旬報しかり様々なメディア、著名人から褒めちぎられている映画なので安易に賛成もしたくなかった天邪鬼な自分だったがことごとく打ちのめされた。僕はなんて卑小な人間なのだろうと天を仰いで懺悔したほどだ。

 

 しかし、天邪鬼な僕でなくとも、先の大戦を扱った作品にはどうしてもナイーブになる人は大勢いるだろう。というのも大抵、硬苦しく、お涙頂戴で、監督の押し付けがましい思想を見ることが大抵だ。必要以上に戦争の悲惨さや巻き込まれた市民の自虐、被害者意識、死にゆく兵士、大戦を生き抜いた兵士のお国のためヒロイズムが前面に描かれてしまう傾向に大きな不満を感じるのは僕だけでないはずだ。2年ほど前に塚本晋也監督の大岡昇平原作の野火を観た際にも感じた事だが、戦後世代の僕たちにとっては先の大戦の映像再現はファンタジーとして映ってしまって真の意味でのリアルはそこにない。野火もコンラッドの闇の奥に迫る勢いで兵士という状況下の個人の狂気的な心理描写、戦争のグロテスクさを高い映像クオリティで再現していたが、あの映画を現実のものとして感じられた人はごく僅かな人だろう。では、僕らにとって何処までもファンタジーでしかないリアルな戦争との距離はいかに縮められるか、どのようにして”この世界の片隅に”が僕に現実を感じさせたかという話題に移ろう。

 

 いつだったか僕の父と戦争について議論を交えたとき、父が詩人兼思想家の吉本隆明戦争と平和という著書の内容に触れたのを覚えている。吉本はトルストイ戦争と平和の終幕、戦地で銃弾に倒れ死に際の主人公が青空を眺め、平和だな、と呟くシーンに触れ、戦争は状況であり、平和は心のうちにあるものであると著書に表したと父は語っていた。僕はどちらの著作も読んでいないので確証は得られないのだが、この話はロジカルだと思うし印象に残っている。戦争のリアルさ、現実味を再現する上で、戦争という状況下での人の心理と、現代に生きる我々の心理とを剪断する表現、大きく突き放してしまう表現とは戦争という非日常的イベントに対する心理的な距離感であると思う。

 

 戦争を描いた漫画で水木しげるラバウル戦記がある。水木しげるラバウルでの戦争体験をもとにした半自伝的な作品だ。水木しげるは僕らと何も変わらない普通で他愛のない人々=兵士を描写する。戦争という異常な事態にあっても、現代を生きる普通の人々と変わらずサラリーマンのような普通さで、戦地にいても娯楽をし、そばで仲間が死んでもまた、のんべんだらりと勤務をこなしていく。物語の中では生きるか、死ぬかの恐怖のドン底にあってもその状況に簡単に慣れてしまう兵士が描かれる。レイモンド・ブリッグスの風が吹くときという絵本もそのような戦時下の淡々とした日常が描かれる作品だ。イギリスの田舎町に住むありきたりな老夫婦が核戦争に巻き込まれ、原爆の放射能汚染で死ぬまでを描いている。ブリッグスはとてもユーモラスで柔和で暖かいキャラクターを描く作品が多く、この作品で描かれる老夫婦も同じなのだが、放射能に対する吹き出してしまうほどの無知な会話、戦争が身近に差し迫る緊迫した状況下でも変わることのない平穏な日常風景などは悪寒を感じさせるほどのブラックユーモアで満ちている。これらの長く語り継がれる作品、そして、”この世界の片隅に”が描写しているのは日常的な幸せ=(心のうちに存在する)平和が戦争によってが侵食されていく過程である。戦争は開戦が宣言された瞬間に戦争が始まるのではなく、平和を侵食されて初めて戦争を実感するのだということを教えているのである。”この世界の片隅に”では戦時下での人々を描写するがそこにはありふれた生活や日常が描かれる。むしろ、主人公のすずはその生活を楽しんでさえいる。すずは戦争の不穏さを日ましに感じ取りながらも、戦争そのものの不条理を疑うことはあまりない。監督は変わりゆく生活に明るくユーモラスに対応するすずにスポットを当てている。しかし、否応なしに迫る過酷な現実からは逃れられるわけもなく、彼女は、そして観者でさえもが想像を絶する残酷を叩きつけられ、初めてそこで戦争がどんなに冷酷かを知り、戻り得ない平和への断絶を実感する。ラバウル戦記では特攻、風が吹くときでは爆弾投下の描写がそれにあたるだろう。戦争という状況は決して非常なものではなくむしろ身近に存在し得るものなのだが、絶望という転落が起こらない限り、誰も気づかない、気づけない生々しさが戦争の現実である。

 

 どんなに不穏で不条理な日常下であろうとその生活が続くにつれ人は簡単にその日常に適応する。物価が高騰したかのように日増しに切迫する配給を疑いもなく受け入れるし、戦艦を見て戦闘機を見て感動する、敵兵をやっつけてくれよと心から応援する。それは時代を超えてリアルな描写ではないだろうか?だから、戦争というものを描く上で戦争という状況下の異質さを描く作品が重要ではない。むしろ、戦争という非日常的状況下が身近にあり、その生活で蝕まれていく(内省的な)平和の描写が重要なのだ。そして、人は悍ましいヒロイズムや安っぽいセンチメンタリズム、くだらない思想で生きているのでもなければ死ぬのでもない、日常を送っているのでもない。それは気が狂っている人間である。心のうちにある平和が戦争の中で起こるイベントによって蝕まれ臨界点を超えたとき、初めて戦争を実感する。それは戦争を進学だとか就職だとか失恋だとかに当てはめても同じ感覚として、つまり日常の風景としてそこに戦争があり得るという事こそがリアルな戦争の正しい表現ではないだろうか。結局のところ、ほとんどの人間は自身の生活、日常によって生かされている事を否定できない。誰もがそのそもそもの日常を疑うことをしない。その日常を生きる人間の生々しさを繊細な表現で描ききれた"この世界の片隅に"は戦争映画史に後世まで名を残すであろうと思う。 渡部夏樹

 

追記:レイモンド・ブリックスの風が吹くときはアニメーションとして映像化されていて音楽をピンク・フロイドロジャー・ウォーターズが担当し、主題歌をデヴィット・ボウイが歌っている。音楽好きにも楽しめるしYoutubeにアップロードされていることもあるので機会があれば見て欲しい。

 

追記2:”この世界の片隅で”の原作を読んだ、と書きましたが僕が読んだのは”夕凪の街、桜の国”でした。そちらの原作のオマージュもあったので監督が敢えて原作を再編したものだと勘違いしていました。悪しからず。