”ふつう”を考える

 先日、ヒロくんがTwitterのバンドアカウントにて大橋裕之氏の人権ポスターについてのニュース記事をRTしたと思う。あの記事について、改めて自分なりに考えたことがあったのでここに記したい。

わたしの「ふつう」と、あなたの「ふつう」はちがう。それを、わたしたちの「ふつう」にしよう。 

 このキャッチコピーはシンプルな言葉だが、同時にものすごく難しい言葉でもある。このポスターを見て誰もが当然の正しい言葉だと感じるだろう。たが、ほとんどの人間が自身の"ふつう"に対して疑う事はしないものだ。知らず知らずのうちに自分にとっての"ふつう"、自分の周りにとって"ふつう"という理由が誰かを磔にしてるかもしれない。それは身近に存在したりする。それは女性やLGBT(性マイノリティー)に対してケースのように誰にとっても分かりやすい不条理な例ではないことが多いだろう。

 例えば、いじめ。あいつ根暗だから、性格悪いから、ノリが悪いから、ウザイから、キモいから、バカだから、仕事が出来ないから、クラスと馴染めないから……あんな奴には何を言ってもいい、何をやってもいい。社会の”ふつう”に適応できないのだから、”ふつう”になる努力を怠るのだから、そう接するのが”ふつう”だろ、と。無意識的にそんな風に人と接してしまった経験はないだろうか?……僕はある。僕自身がそうだったのだが加害者はマジョリティである事を後ろ盾に自身の間違いに気づけない。それに気付けても、周囲の目を気にして謝まることも出来なかったりする。でも、それは素直に反省すべきだ。別に仲良くなる必要もないし、勇気がなくて謝れなくてもいい。距離をとることは出来るし、周りにもうやめようと促すことも出来るはずだ。

 人間全体が分かり合うことはないのだろうと思う。何世紀たったって宗教戦争は起こるし、身近にいるウザくてキモい奴はこの先もウザくてしキモいままだ。でも、分かり合えないからこそ、人間はこうも魅力的なのだ。分かり合えないから人は愛を求めるし、愛を愛することが出来る。苦しんでいる人間に手を差し伸べること、人の罪を赦すこと、それこそが至上の愛だと思う。誰かの”ふつう”を理解すること、そしてそのふつうに尊厳を持って接することが大事だと思う。 渡部夏樹