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転落についての覚書

 印刷工場で働いていた頃、僕は精神的におかしくなっていた。日常的な長時間労働の末、うつ病重度の不眠症を併発し生活は酷く荒んでいた。鏡の前で自分に話しかけてはいきなり自分のことをぶん殴ってみたり、毎晩のように視界が歪むほど酒を煽っては泣きじゃくったり馬鹿笑いしてみたり、とかく奇行が多かった。酷いときには深夜帯の街で泥酔しながらゲロを吐き散らし拳を血に染めるほど暴れたりもした。

 何が僕をあの身の毛がよだつ狂気に駆り立てたのか。今の僕でも明晰にはわからない。何か心に大きな傷を抱えるほどの事件が起こったわけではない。それはちょうど鏡の国のアリスのチャシャ猫のようにすりよってきて僕を蝕んでいった。猫のない笑い。気づけば寝ても覚めても実体のない囁きが付きまとい狂気の淵へ叩き落とされていた。精神科医から自己分裂を起こしていると言われたとき、僕は自分が壊れてしまった事ともう二度と正気には戻れないだろう絶望から泣き崩れた。

 結果として、僕は1年ほどで退職し、実家に戻って療養することで症状は少しずつ回復していった。重篤な統合失調症ではなかったのだろう。あの医者もヤブ医者だったのかもしれない(慶應出らしいが)。最もうつ病不眠症が再発した事はあったが、それでも何とか以前ほどには悪化せずに済んだ。しかし、今でもあの狂気に怯えない日はない。あの日々を忘れない日はない。自分が狂っているのではないかと疑わない日はない。僕の人生はあの日々を境にすべてが変わってしまった。僕はあの地獄の苦しみ以外、現実だとは思えなくなった。 渡部夏樹