これから書こうと思うもの

 最近、話題に煮詰まってブログから遠ざかっていた。政治や社会動向を見ていて思うところはたくさんあるし、書かなければいけないという気持ちはあった。でも、いざ社会に発信するとなると、それなりに度胸がいるものだ。間違いなく日本がおかしい!とは言い切れても、人に説得できるだけの文章を僕がかけるだろうか……という技量の不安を払拭できない。知識やロジック、文章力の問題だけではない。社会へ意見を発信することで、僕という一個人の人格も間違いなく問われる。もちろん一社会的意見に対して、それを説く個人の(社会的)立ち位置や人格をも追及されることが全面的に正しいとは思わない。だけど、そのプレッシャーに堪える自信を持てない自分がいて、フラストレーションで辛かった。

 

 今日、POSSEの集会へ参加した後、軽く呑みながらヒロくんと話をした。クオリティ関係なくどんどんブログを書いてくれ、と言われた。迷って何もしないのは勿体ないと。それで考えたのだが、一旦社会問題の話題は置いておいて、自分の最近ハマってる音楽だとか本とか芸術だとかそんな話題をブログに載せていくことにした。”この世界の片隅で”の記事みたいな批評じみたこともやめて、肩の力を抜いて書こうと。ビーバス&バットヘッドのような(バカみたいな)スタイルもいいだろう。どうせ、失恋のチンケな詩を載せてしまったわけで……。もちろん、社会的な話題を書くことをやめるわけではない。書きたい欲求を抑えられないし、サブカルチャーと政治社会は切っても切り離せないから、自ずと文章に現代社会や政治を交えることにはなるだろう。ただ、もう気張って文章を書くことをやめることにした。

渡部夏樹

散文詩 失恋

2016/11/06

 

僕の思い出のつまった立川のオリオンパピルスは潰れた。

好きな子が働いていた。

マンガコーナーのラジカセから

ラッキー・オールド・サンが流れていた。

あのパピルスのような名刺

創業当時のその名刺を

僕は古本の隙間から見つけた。

裏には立美の広告__立川美術学院__

彼女の通っていた美大

 

僕は今ecuteの前で佇んで

昨日の僕が

彼女にあの小さな名刺をプレゼントしようと

駆けていくのを見た。

僕は知っている。

愛する彼女、あの小さな名刺が

消えてしまうことを

知っている。

あの時の僕がどんなに辛かったかを

知っている。

 

PAPER WALL 

パピルスは薙ぎ倒されて

今では壁が築かれた。

 

             渡部夏樹

手取り幾万の夢

手取り幾万の夢

 

今日いっぱいの飯がほしい

次の朝までもてればいい、と

意地汚い僕は今日も

コンビニの廃棄に手を付けた

 

故郷で暮らす家族の為に

僕は何ができただろう

金曜夜のネオン街では

くたびれたサラリーマンたちが輝いていた

 

15日付の給料日で

手取り幾万の金を手に

僕は何処へ向かうべきか

明日になれば忘れるのだろう

 

仕事を譲り受けたいけれど

彼らには守るべき家庭がある

目の前にある自由を手に入れるために

一体誰が苦しむべきなのだろうか

 

今日いっぱいの飯がほしい

夜の酒にありつく為に

意地汚い僕は今日も

コンビニの廃棄に手を付けた

 

 

岩間寛佳

 

 

参考:「丸山眞男」をひっぱたきたい (赤木智弘)

http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html

都市貧者の詩

都市貧者の詩

 

僕は阿呆である

汚れ果てた阿呆である

蕎麦屋に立ち寄る失業者の詩

突き刺さる寒空、幸福を見つめる

悲哀だけの都市生活者

どこへゆくのやら、さみしがりやの君

 

女たちの噂話

窓ガラスは宇宙

夢の捨て場

浮浪者がさまよう

忘れさられた、殺人の街

 

六帖の部屋の中

数人の学生と数人の失業者と

数人の若い娘と数人の乗客

 

 

彼女は二十二を過ぎた

恋人、学友、図書館、駅舎

美しい毛髪、唇

美しい身体、肌

あらゆる高い価値に気づく

若く健全な肢体は

空想の如く飛翔する

 

引き裂いた、引き裂いた

僕の体中を、脳天に至るまで!

彼女の軽薄な眼差しは

僕の嘘を嘲笑う

 

 

恋模様

恋模様

恋模様

 

 

僕は痴呆である

病的な痴呆である

 

彼女は空虚の中にいる

僕は遂に白状した

僕のような飢えた乞食は

少なくともあと五、六人

 

僕ははきだめにいる

 

 

涙は消えた

無垢さゆえに、汚された

誇大した妄念は

塵芥のように堆積し

そして僕を生き埋めにした

 

涙は消えた

星は失明した

 

 

僕ははきだめにいる

数人の乞食とともに

愛を嘆願している

 

貧者は星を捕えた

汚れぬよう、コーティングした

が、汚された

 

 

 

恋模様

恋模様

恋模様

 

 

 

僕は阿呆である

汚れ果てた阿呆である

 

 

貧者は星を捕えた

 

 

 

 

岩間寛佳

コンビニでの会話

―1月某日夕刻、都内のとある学生街のコンビニにて―

 

店員Aは20代前半、大学生男

客Bは50代後半~60代前半男

 

「いらっしゃいませ」

「(スポーツ新聞の1面を指差して)おい、こんなとんでもない奴が大統領だぜ。 どうするよ」

「そうですね」

「俺らはもう死ぬから良いけどよ、お前らの世代、大変だぜ。安倍ちゃんに戦争行かされることになるぞ、良いのか?(苦笑)」

「そうですね」

「そうですねって、戦争始まってもいいのかよ?最近じゃ中国も力持ってきてるし、アメリカも結局、国境に壁つくるみたいじゃねえか。ヨーロッパでも極右が気勢を上げて、難民に対してとんでもなく閉鎖的だ。日本の外国人労働者も年々増えて、100万越えたらしいじゃないか。ここの店にも何人かいるよな。お前どう思うんだ?」

「お客様、後ろの方がお待ちですので…。」

「まったくよ…お前ら本当に自覚したほうがいいぜ。友だちも、家族も、恋人も…全て奪われてからじゃ遅いからな。よく考えろよ。(再び苦笑)」

 

「ありがとうございました」

 

岩間寛佳

”この世界の片隅に” ーリアルな戦争ー

 先日、従兄弟に誘われて"この世界の片隅に"を見に映画館に足を運んだ。随分前にこうの史代さんの原作を読んでいたので公開当初から関心はあったのだが、話題作を世間の熱が冷めてから見るような偏屈な僕なので映画館に向かってまで見たいとは思わなかった。従兄弟が誘ってくれなければ、もしかするとこの先何年も見ることもなかったかもしれない。 結論から言えば、素晴らしいの一言に尽きる映画だった。生々しい戦争を肌で空気で感じられる作品だった。映画館を出てから僕はあまりの衝撃と感動に言葉を失ってしまって従兄弟と何を話せばいいのか戸惑ってしまったくらいだ。キネマ旬報しかり様々なメディア、著名人から褒めちぎられている映画なので安易に賛成もしたくなかった天邪鬼な自分だったがことごとく打ちのめされた。僕はなんて卑小な人間なのだろうと天を仰いで懺悔したほどだ。

 

 しかし、天邪鬼な僕でなくとも、先の大戦を扱った作品にはどうしてもナイーブになる人は大勢いるだろう。というのも大抵、硬苦しく、お涙頂戴で、監督の押し付けがましい思想を見ることが大抵だ。必要以上に戦争の悲惨さや巻き込まれた市民の自虐、被害者意識、死にゆく兵士、大戦を生き抜いた兵士のお国のためヒロイズムが前面に描かれてしまう傾向に大きな不満を感じるのは僕だけでないはずだ。2年ほど前に塚本晋也監督の大岡昇平原作の野火を観た際にも感じた事だが、戦後世代の僕たちにとっては先の大戦の映像再現はファンタジーとして映ってしまって真の意味でのリアルはそこにない。野火もコンラッドの闇の奥に迫る勢いで兵士という状況下の個人の狂気的な心理描写、戦争のグロテスクさを高い映像クオリティで再現していたが、あの映画を現実のものとして感じられた人はごく僅かな人だろう。では、僕らにとって何処までもファンタジーでしかないリアルな戦争との距離はいかに縮められるか、どのようにして”この世界の片隅に”が僕に現実を感じさせたかという話題に移ろう。

 

 いつだったか僕の父と戦争について議論を交えたとき、父が詩人兼思想家の吉本隆明戦争と平和という著書の内容に触れたのを覚えている。吉本はトルストイ戦争と平和の終幕、戦地で銃弾に倒れ死に際の主人公が青空を眺め、平和だな、と呟くシーンに触れ、戦争は状況であり、平和は心のうちにあるものであると著書に表したと父は語っていた。僕はどちらの著作も読んでいないので確証は得られないのだが、この話はロジカルだと思うし印象に残っている。戦争のリアルさ、現実味を再現する上で、戦争という状況下での人の心理と、現代に生きる我々の心理とを剪断する表現、大きく突き放してしまう表現とは戦争という非日常的イベントに対する心理的な距離感であると思う。

 

 戦争を描いた漫画で水木しげるラバウル戦記がある。水木しげるラバウルでの戦争体験をもとにした半自伝的な作品だ。水木しげるは僕らと何も変わらない普通で他愛のない人々=兵士を描写する。戦争という異常な事態にあっても、現代を生きる普通の人々と変わらずサラリーマンのような普通さで、戦地にいても娯楽をし、そばで仲間が死んでもまた、のんべんだらりと勤務をこなしていく。物語の中では生きるか、死ぬかの恐怖のドン底にあってもその状況に簡単に慣れてしまう兵士が描かれる。レイモンド・ブリッグスの風が吹くときという絵本もそのような戦時下の淡々とした日常が描かれる作品だ。イギリスの田舎町に住むありきたりな老夫婦が核戦争に巻き込まれ、原爆の放射能汚染で死ぬまでを描いている。ブリッグスはとてもユーモラスで柔和で暖かいキャラクターを描く作品が多く、この作品で描かれる老夫婦も同じなのだが、放射能に対する吹き出してしまうほどの無知な会話、戦争が身近に差し迫る緊迫した状況下でも変わることのない平穏な日常風景などは悪寒を感じさせるほどのブラックユーモアで満ちている。これらの長く語り継がれる作品、そして、”この世界の片隅に”が描写しているのは日常的な幸せ=(心のうちに存在する)平和が戦争によってが侵食されていく過程である。戦争は開戦が宣言された瞬間に戦争が始まるのではなく、平和を侵食されて初めて戦争を実感するのだということを教えているのである。”この世界の片隅に”では戦時下での人々を描写するがそこにはありふれた生活や日常が描かれる。むしろ、主人公のすずはその生活を楽しんでさえいる。すずは戦争の不穏さを日ましに感じ取りながらも、戦争そのものの不条理を疑うことはあまりない。監督は変わりゆく生活に明るくユーモラスに対応するすずにスポットを当てている。しかし、否応なしに迫る過酷な現実からは逃れられるわけもなく、彼女は、そして観者でさえもが想像を絶する残酷を叩きつけられ、初めてそこで戦争がどんなに冷酷かを知り、戻り得ない平和への断絶を実感する。ラバウル戦記では特攻、風が吹くときでは爆弾投下の描写がそれにあたるだろう。戦争という状況は決して非常なものではなくむしろ身近に存在し得るものなのだが、絶望という転落が起こらない限り、誰も気づかない、気づけない生々しさが戦争の現実である。

 

 どんなに不穏で不条理な日常下であろうとその生活が続くにつれ人は簡単にその日常に適応する。物価が高騰したかのように日増しに切迫する配給を疑いもなく受け入れるし、戦艦を見て戦闘機を見て感動する、敵兵をやっつけてくれよと心から応援する。それは時代を超えてリアルな描写ではないだろうか?だから、戦争というものを描く上で戦争という状況下の異質さを描く作品が重要ではない。むしろ、戦争という非日常的状況下が身近にあり、その生活で蝕まれていく(内省的な)平和の描写が重要なのだ。そして、人は悍ましいヒロイズムや安っぽいセンチメンタリズム、くだらない思想で生きているのでもなければ死ぬのでもない、日常を送っているのでもない。それは気が狂っている人間である。心のうちにある平和が戦争の中で起こるイベントによって蝕まれ臨界点を超えたとき、初めて戦争を実感する。それは戦争を進学だとか就職だとか失恋だとかに当てはめても同じ感覚として、つまり日常の風景としてそこに戦争があり得るという事こそがリアルな戦争の正しい表現ではないだろうか。結局のところ、ほとんどの人間は自身の生活、日常によって生かされている事を否定できない。誰もがそのそもそもの日常を疑うことをしない。その日常を生きる人間の生々しさを繊細な表現で描ききれた"この世界の片隅に"は戦争映画史に後世まで名を残すであろうと思う。 渡部夏樹

 

追記:レイモンド・ブリックスの風が吹くときはアニメーションとして映像化されていて音楽をピンク・フロイドロジャー・ウォーターズが担当し、主題歌をデヴィット・ボウイが歌っている。音楽好きにも楽しめるしYoutubeにアップロードされていることもあるので機会があれば見て欲しい。

 

追記2:”この世界の片隅で”の原作を読んだ、と書きましたが僕が読んだのは”夕凪の街、桜の国”でした。そちらの原作のオマージュもあったので監督が敢えて原作を再編したものだと勘違いしていました。悪しからず。

 

分断化と寛容の心

「変化」の年となった昨年における、イギリスのEU脱退からドナルド・トランプの大統領選出然り、各国で肥大する反グローバリズム、また極右政党の台頭が今後私たちの暮らしを脅かし得るなどという懸念が、一体どれだけの人々の胸中にあるだろうか。国内を見渡せば、相模原での障害者施設襲撃事件、貧困バッシング、過労自殺原発避難民のいじめ、沖縄でのオスプレイ墜落事故など、日常に潜む不安を増幅させるような事件が相次いだ。

他方、SNSなどで個人の動向を逐一投稿し、それに対する反応など、バーチャル空間での繋がりを求める風潮も相まって、より一層コミュニケーションが希薄になり、見かけ重視、わかりやすさ重視、言い換えれば、手軽なメディアを用いたその場しのぎの関係性が蔓延ってはいないだろうか。精神科医斎藤環氏によると、近年の若者は、他者からの「承認」のために就労、交際、結婚などという行為をする傾向があるという。

このような潮流の根底にあるのは、概して「他者に対する不寛容さ」ではないだろうか。個々人の意識の内に潜む差別や蔑視の心は、バッシングやポピュリストたちによって呼び起こされ、それがいわゆる「分断」に拍車をかけているようにも見て取れる。先日も私のとある友人が、「他人の生活や、その時の心理状況など考えていられる余裕はない」といった趣旨の言葉を口にしていたが、確かにそれもそうだと、妙に納得してしまったのを覚えている。多くの人間たちにとっては、自分と、また自分の所属するコミュニティにおける日々の事象についての思念で精一杯であり、社会がどうとか、街ですれ違う人々についてまで配慮出来るほど寛容ではないのだ。

けれども、そのように欠落した配慮の心は、結局は自分と直接的な関わりがない他人だから気遣いなど不要、自分さえ快く過ごすことができれば人を貶めても構わない、といった思考に陥りやすいのではないか。それが移民排斥を声高に叫び、また貧困者、低所得層の人たちを「自己責任」だと追い込むような言説がまかり通る一つの要因になっていると思えてならない。他者に対する不寛容の精神が、分断の溝をより一層深いものにしている。

主張や意見の食い違う相手に対して、自分の常識や正論を振りかざす前に、一度立ち止まり、複眼的に考察してみる。また、街ですれ違う人々について、少しでも思慮を巡らせてみる。道徳的なこういった心がけが、分断化が進む昨今では、一層肝要なのではないだろうか。

岩間寛佳