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けものフレンズ

天気がいい。部屋に射し込む日の光が優しい。風も穏やかだ。鳥のさえずりが聞こえる。僕は相変わらず布団の上で横になって、換気扇の音を聞いている。

朝、空腹の胃にスコッチを混ぜたコーヒーを流した。その所為だろうか。さっきまでの僕は気がどうかして、酸欠で悶えていた。怖かったのだ。部屋を囲む本棚の視線が。

最近、けものフレンズを見る楽しみに安心感を覚える。かばんちゃんやサーバルちゃんとジャパリパークを探検する25分が待ち遠しくて仕方ない。これほど中身のないアニメはないとの意見をよく耳にする。確かに同じけものアニメでもマイリトルポニーとは雲泥の差があるだろう。しかし、言われずもがな過半数けものフレンズファンはそれを自覚している。それでも、このアニメの虜になって、「すっごーい!」「たのしいーい!」「きみは〜がとくいなフレンズなんだね!」を連呼するに至る"フレンズ"は着々と増えているようだ。その事実は一体何を物語っているのだろうか。(萌)アニ豚がまた流行りにのっかっているだけと考えるのは安直だろう。アニメの画像を見てわかる通り、フルCGのキャラ絵図に可愛い・愛くるしいの延長線上にある"萌え"要素を感じた人間がいるとは、僕にはまったく思えない。事実、萌え絵図だったゲームアプリ版の吉崎観音(ケロロ軍曹の作者)のデザインでも漫画版のキャラ絵でもまったくの不評だったわけで、これは先に流行った幼児性萌えアニメ"ごちうさ"とはまったく違った受けとられ方をしているのがわかる。

物語は基本的に三幕構成によって構築されている。物語を充実させるにあたって不可欠な要素は第二幕、三幕にあたる『対立、衝突』そして『解決』である。主人公が立ちはだかる困難を克服し、目的を完遂することで見者は感動を覚える。

日常系萌えアニメというのは『対立、衝突』を極力排する。視聴者は主人公の成長、克服を求めていないからだ。その代わり、(オタク的な)"笑い"だったり"萌え"によって物語を充足させる。キャラクターの愛くるしさを視聴者は楽しむのである。だから、日常系萌えアニメは物語性を排して登場人物のキャラクター性に重点が置かれている。しかし、けものフレンズの"中身のなさ"は日常系萌えアニメの比較にならない。かばんちゃんの存在の謎をつきあかすロードムービーという王道的な形式を取ってはいるが、物語の勾配がないばかりでなく、充足的な笑いの要素も萌えの要素(登場人物はすべて女性ではあるが)もほとんどないのである。では、何故、このような異形の物語が多くのファンを生んでいるのだろうか。その答えはすべて『すっごーい』『たのしいーい』に尽きる。

現代の日本人は当たり前であることを要求されすぎていて、承認欲求に飢えていると僕は考察する。'02年から施行されたゆとり世代の教育方針は'03年にリリースされたSMAPの"世界に一つだけの花"の「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」という歌詞に包括されるだろうか。ゆとり教育の幕開けと共にこの曲は大ヒットを生んだ。しかし、結果的にゆとり教育の"誰もが素晴らしい"という幻想は競争社会をいっそう加熱させたと思っている。誰もが特別、Only oneであるとの社会意識は特別であることのハードルを格段に下げてしまったのだと思う。今月号のPOPYE('17 MARCH 二十歳のとき、何をしていたか?)の記事でピエール瀧氏が話していたことだが、ゆとり教育以前の『所詮、おまえみたいなものには価値がない』という前提の上での、そこから抜け出したいのなら努力しろ、ちゃんと向き合え、そうすればチャンスはあるかもよ、という教育は誰もが平等に"無価値な人間"で許されたのに対して、ゆとり世代では"誰もが平等で価値があり丁寧にパッケージングされている=特別な人間"である(べき)という意識を強要されたのである。元々、ダメな人でも大丈夫だよというゆとり教育の認識がダメな人間なんていないよ、ダメな人間なんて(社会には)存在してはいけないよ、自分で特別=普通であることを放棄するのは自己責任、という認識に変容したのだと思う。誰もが特別なことが普通な社会では、誰もが"ダメじゃない普通な人"であるために競争し、普通が普通以上に価値がない故に、承認欲求を満たせないのである。けものフレンズがファンを獲得したバックグラウンドはここにあると思う。けものフレンズの世界=ジャパリパークにはゆとり教育桃源郷が広がっていたのである。自分の出来る小さな小さなことを『すっごーい』と褒めてくれる、『たのしいーい』と喜んでくれる。普通に出来て当たり前と思わないでくれる友達に支えられている安心感によって、視聴者はけものフレンズに魅了されるのである。そして僕が取り憑かれたように見ているわけもそこにあるのだと書きながら気づいた。社会のレールから一度でも外れたら死に物狂いで普通に戻らなくてはいけない。死ぬ気で頑張っても普通以上の何の対価も得られない社会。そんな社会の切迫感の中でけものフレンズはとてもとても優しいのだ。 渡部夏樹

Blue

先日、デレク・ジャーマン監督の『Blue』を見た。映画の最初から最後まで、スクリーン一面に青色が投影されるのみの前衛的な映画だ。デレク氏は、この映画製作時、エイズによる合併症で末期状態にあり、ほぼ失明の状態にあった。一面の青の中で彼はエイズに蝕まれていく自身の生活や、同じくエイズで死んでいった友人、そして社会のエイズへの反応に対して感情を吐露する。彼の読み上げる散文は幻想的だ。青の中に彼の見たであろう光景が浮かんでは消え、彼の精神的肉体的な痛みさえも実際に感じるほどであった。鑑賞しながら向かう場所のない感情でいっぱいになり涙した。

最近、身体がだるく1日布団の中で過ごしている。Twitterを見ているとそこには残酷な情報が広がっている。労働問題、沖縄の反基地デモ、稲田朋美南スーダンに関する答弁、塚本幼稚園、森友学園の幼児虐待とレイシズム……地獄のようだ。スマホから目を離し、窓へと目を向ける。青空。部屋の中では風と子供の声の他何も聞こえない。あまりに静かで感傷的になる。僕は何をしているんだろう。どこへ向かうのだろう。そんな言葉が頭によぎる。

この一面の空を前にして、僕はどこまでも無力だ。デレク・ジャーマンも同じことを思っただろうか。白濁していく色彩と追憶の青さを前にして。僕が社会を変えられるわけがない。だけど、僕は一介の表現者である。表現者として生きている。デレク氏がエイズに最後まで向き合ったように、この残酷な社会と純朴な空と賢明に向き合わなければならない。

芸術は何故崇高であるか。考えたことはあるだろうか。表現の責任を考えたことがあるだろうか。僕は思う。芸術家は表現を通して社会と向き合い、その中で生きる個人、そして自身を問わなくてはならないのだと。それが芸術家としての責任でありプライドなのだと僕は思う。それを完遂したとき、初めて芸術が崇高たり得るのだと。ゴッホピカソという1人の天才が芸術を残すのではない。社会が芸術を選ぶのだ。勿論、どこまでも社会とは共同体の幻想でしかない。もしかしたら、どこまでいっても独り相撲で終わるかもしれない。その覚悟の上で芸術家は社会を評論し問い続けなければならないのだ。そのアンサーを通して芸術家は社会を知り、自身を知り得るのだから。芸術は社会を変えられるか?そんな問い自体愚問だ。社会を変えるのは何処までも共同体を生きる私達だ。この不条理な空の青さを前にしても尚、僕は反抗しなければならない。

デレク・ジャーマンの『Blue』が芸術と呼ばれるのはつまりそういうことだろうと思う。

渡部夏樹

ヴェイパーウェイヴ

[序]

 最近、ヴェイパーウェイヴ - Wikipediaに凝っている。テクノである。紹介させて欲しい。パンクバンドのブログ記事で音楽紹介を初めて真っ先に挙げるジャンルではないし、このブログを見ている大半の人には興味のないジャンルだろうとは思う。だけど、そこはまぁ許して欲しい。僕はパンクバンドのギタリストであると同時に音楽ナードなのでロック、パンクに限定して音楽を紹介するのは窮屈だから。だけど、専門から外れた音楽ファンにも楽しんでもらえるよう努力はする。

 

[ヴェイパーウェイヴとは] 

 上記のWikiのリンクを見ていただければ概要はわかるだろうと思われるので詳細は省く。正直なところwikiに書いてある以上の情報は知らない。いわゆるポストチルウェーヴ - Wikipediaといったところだろうか。チルウェーヴのノスタルジックな電子音やラウンジミュージックから発展し、cmやVHSのサウンドトラックまでを吸収して形成されている。大量消費社会の幻想に対するノスタルジックもしくはイロニーを込めた音楽である。

 

[経緯]

 工員だった頃、勤め先の工場にテクノジャンキーの先輩がいた。デトロイトテクノ全盛のアメリカ(もっとも住んでいたのは西海岸の方面だった筈だが)に住んでいただけあってものすごく精通していて、有名になる前のポール・ヴァン・ダイク - Wikipediaと握手を交わしたのともある人だった。

 僕も曲がりなりにもテクノ好きだったから先輩とは出会ったその日に意気投合して、先輩からテクノのCDをたくさん貸りるようになった。特にゴアテクノとかトランスの方をよく聞いていた気がする。いろいろと聞いていくうちに最近のクラブミュージック動向が気になりだして、そのうち自分でも調べて聞くようになった。

 

 そんな時期にYoutubeサーフィンをしていて偶然見つけたのがMACKINTOSH PLUSとBlank Bansheeだった。衝撃的だったのを覚えている。僕のテクノ・ハウスの見識は00年代初頭で止まっていたからだ。これが僕とヴェイパーウェイヴの最初の出会いだった。もっともあのとき、この二枚のアルバムをネットで検索したところで詳細な情報が載っている記事は(英字のwikiでさえ)ほとんどなかったのでヴェイパーウェイヴという言葉は知れずじまいだった。それから間もないうちに僕の精神状態が悪化していくようになり、テクノやハウスからは遠のいていった。

 

 時は流れてそれから3年後(つい先月のことだが)、Youtubeサーフィンをしていたらヴェイパーウェイヴと名が打たれたミックストラックと出会った。大友克洋のMEMORIESの画像につられてリンクを押したのである。二度目の衝撃だった。日本の80年代のcmを見返した時のような言いようのない郷愁感を感じた。製作者もYoutubeのコメントも英語圏の人しかいない事が気になった。それから色々と調べて行くうちに、気づけばどっぷりと浸かってしまっていたというわけである。

 

[紹介]

 と、前文が長くなってしまったがここで僕が最近聞いているヴェイパーウェイヴのアルバムを紹介させて頂きたいと思う。

 

 ファンク色が強いものからPCのBGMまで、日本のニュウェーヴ、AORマイケル・ジャクソンを初めとする80年代的R&Bからユーロ色の強いディスコ、なんでもサンプリングしてしまう。音色がものすごく古いのに、ものすごくノレる。

 

 日本の90年代(?)のコカ・コーラのcmをずっと見ながら聞いているとトリップしてくる。

 

 wikiではヴェイパー・ウェイヴの古典と書かれている。日本色は薄く、古いコンピューターサウンドで構成されている。チルウェーヴからの流れを感じられる。

 

 古いトラックにくわえて音が厚く重ねたペタペタした印象を持つものが多い中、音がシンプルで安定していて心地いい。このアルバム自体は従兄弟と同居時代していた頃から知っていたが心の琴線に触れることがなかったので忘れていた。今聞き直すととてもいい。山下達郎がサンプリングされている。Sant PepsiはPVも気味が悪くて面白い。

 

  マクロスとはあのマクロスだろう。今海外でのマクロスの評価を調べたところマクロスは海外ではロボテックという名で他のタツノコプロのロボットアニメと話を混ぜ合わせて放映されていたそうである。マクロスの".愛おぼえていますか"はAKIRAと並んで日本の手書き作画の全盛期を象徴するものだったに違いない。すべて分かった上でのこのアーティスト名なのではないだろうか(深読みか)。

 

 フランスから。ジャケットを見ての通り深夜の雰囲気を感じさせる。叙情的で尚且つクールなムードが漂っている。クラシカルまたはジャジーな雰囲気がたまらない。

 

 日本人でヴェイパーウェイヴを実践している人はいる。それはVIDEOTAPEMUSIC氏、彼一人かもしれない(僕の知らないだけかもしれないが)。彼は様々なVHSのサウンドトラックをつなぎ合わせて曲を作っている。7泊8日も従兄弟と同居時代から知っていたのだが、何故か新しい音楽の流れという認識をあまり感じていなかった。最近CEROと共演したライブをYoutubeで見たがやっぱり面白かった。

 

[関係のない話]

 ちょっと前におそらくとんかつDJアゲ太郎の影響で”チルってる”とかいう言葉が流行った(僕自身はエモいに次いでキモいと思っていた)。僕は”チル”とはKLFのチルアウトの認識だったのだが、ネットを歩くとバンドサウンドに対してチルってると表する人間がいるではないか。ずっと何言ってんだコイツと思っていたのだが今考えるとチルってるとはチルウェーヴのチルだったのだろうか。今になってはどうでもいいが。

 

渡部夏樹

これから書こうと思うもの

 最近、話題に煮詰まってブログから遠ざかっていた。政治や社会動向を見ていて思うところはたくさんあるし、書かなければいけないという気持ちはあった。でも、いざ社会に発信するとなると、それなりに度胸がいるものだ。間違いなく日本がおかしい!とは言い切れても、人に説得できるだけの文章を僕がかけるだろうか……という技量の不安を払拭できない。知識やロジック、文章力の問題だけではない。社会へ意見を発信することで、僕という一個人の人格も間違いなく問われる。もちろん一社会的意見に対して、それを説く個人の(社会的)立ち位置や人格をも追及されることが全面的に正しいとは思わない。だけど、そのプレッシャーに堪える自信を持てない自分がいて、フラストレーションで辛かった。

 

 今日、POSSEの集会へ参加した後、軽く呑みながらヒロくんと話をした。クオリティ関係なくどんどんブログを書いてくれ、と言われた。迷って何もしないのは勿体ないと。それで考えたのだが、一旦社会問題の話題は置いておいて、自分の最近ハマってる音楽だとか本とか芸術だとかそんな話題をブログに載せていくことにした。”この世界の片隅で”の記事みたいな批評じみたこともやめて、肩の力を抜いて書こうと。ビーバス&バットヘッドのような(バカみたいな)スタイルもいいだろう。どうせ、失恋のチンケな詩を載せてしまったわけで……。もちろん、社会的な話題を書くことをやめるわけではない。書きたい欲求を抑えられないし、サブカルチャーと政治社会は切っても切り離せないから、自ずと文章に現代社会や政治を交えることにはなるだろう。ただ、もう気張って文章を書くことをやめることにした。

渡部夏樹

散文詩 失恋

2016/11/06

 

僕の思い出のつまった立川のオリオンパピルスは潰れた。

好きな子が働いていた。

マンガコーナーのラジカセから

ラッキー・オールド・サンが流れていた。

あのパピルスのような名刺

創業当時のその名刺を

僕は古本の隙間から見つけた。

裏には立美の広告__立川美術学院__

彼女の通っていた美大

 

僕は今ecuteの前で佇んで

昨日の僕が

彼女にあの小さな名刺をプレゼントしようと

駆けていくのを見た。

僕は知っている。

愛する彼女、あの小さな名刺が

消えてしまうことを

知っている。

あの時の僕がどんなに辛かったかを

知っている。

 

PAPER WALL 

パピルスは薙ぎ倒されて

今では壁が築かれた。

 

             渡部夏樹

手取り幾万の夢

手取り幾万の夢

 

今日いっぱいの飯がほしい

次の朝までもてればいい、と

意地汚い僕は今日も

コンビニの廃棄に手を付けた

 

故郷で暮らす家族の為に

僕は何ができただろう

金曜夜のネオン街では

くたびれたサラリーマンたちが輝いていた

 

15日付の給料日で

手取り幾万の金を手に

僕は何処へ向かうべきか

明日になれば忘れるのだろう

 

仕事を譲り受けたいけれど

彼らには守るべき家庭がある

目の前にある自由を手に入れるために

一体誰が苦しむべきなのだろうか

 

今日いっぱいの飯がほしい

夜の酒にありつく為に

意地汚い僕は今日も

コンビニの廃棄に手を付けた

 

 

岩間寛佳

 

 

参考:「丸山眞男」をひっぱたきたい (赤木智弘)

http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html

都市貧者の詩

都市貧者の詩

 

僕は阿呆である

汚れ果てた阿呆である

蕎麦屋に立ち寄る失業者の詩

突き刺さる寒空、幸福を見つめる

悲哀だけの都市生活者

どこへゆくのやら、さみしがりやの君

 

女たちの噂話

窓ガラスは宇宙

夢の捨て場

浮浪者がさまよう

忘れさられた、殺人の街

 

六帖の部屋の中

数人の学生と数人の失業者と

数人の若い娘と数人の乗客

 

 

彼女は二十二を過ぎた

恋人、学友、図書館、駅舎

美しい毛髪、唇

美しい身体、肌

あらゆる高い価値に気づく

若く健全な肢体は

空想の如く飛翔する

 

引き裂いた、引き裂いた

僕の体中を、脳天に至るまで!

彼女の軽薄な眼差しは

僕の嘘を嘲笑う

 

 

恋模様

恋模様

恋模様

 

 

僕は痴呆である

病的な痴呆である

 

彼女は空虚の中にいる

僕は遂に白状した

僕のような飢えた乞食は

少なくともあと五、六人

 

僕ははきだめにいる

 

 

涙は消えた

無垢さゆえに、汚された

誇大した妄念は

塵芥のように堆積し

そして僕を生き埋めにした

 

涙は消えた

星は失明した

 

 

僕ははきだめにいる

数人の乞食とともに

愛を嘆願している

 

貧者は星を捕えた

汚れぬよう、コーティングした

が、汚された

 

 

 

恋模様

恋模様

恋模様

 

 

 

僕は阿呆である

汚れ果てた阿呆である

 

 

貧者は星を捕えた

 

 

 

 

岩間寛佳