ミサイルが落ちてくる2 PAC-3は市民を弾道ミサイルから守れるか?

 前回の記事を書きながら、弾道ミサイルが日本に向けて発射され、イージス艦の迎撃をぬけて領土に落ちてきた場合、PAC-3は迎撃できるのだろうかと気になり、自分なりにネットで調べてみた。

 

PAC-3があるから日本は心配ない」「PAC-3は高性能なのでまず北朝鮮のミサイルなんぞは飛来物残さず破壊できる」というような声がYahoo知恵袋にたくさんあったが、それそのものの性能理論上の話は多くとも実証に基づくプロファイルの情報があまりにも少なかった。キーワードを変えて探しているうちにいくつか興味深い記事を見つけた。

 

 

 そもそもの前提、イージス艦の迎撃からミサイルが抜けてくることはありえるのだろうか。それは上の産経の記事が詳しい。こちらの2016年の記事では、イージス艦に搭載されたSM-3の迎撃成功率が載っている。2015年の40発のミサイル発射実験で40発中、33発の迎撃に成功、よって82.5%の成功率だという。つまり完璧ではない。40発撃ち込まれたら最高で7発は落ちてくるということか。当たり前だが機械を操作するのは、同じ人であり、どんなトラブルがあるかもわからないわけで、100%の信頼というものはない。 

 

 

 

 調べたところによると、(ミサイル防衛 - Wikipedia)迎撃する段階には上昇段階、中間段階、終末段階(ターミナル・フェーズ)の三つに分けられるらしく、PAC-3や韓国で配備されたTHAADは終末段階にあたるらしい。インタフェーズにおける迎撃の計算式が上の記事である。……正直さっぱり理解できない。が、下の記事では上の記事に基づいてノドンをPAC-3が迎撃した場合をまとめている。

 

 

  記事内の結論にあるとおり、「計算上は「交戦可能」ただしこれは「PAC-3は準長距離弾道弾と交戦は可能」であることを示すものであり、PAC-3が広域エリア防空(都市防空)に適した兵器であるという証左にはなりません」とのことである。早い話、安心はできないということか。また、wikipediaPAC-3の迎撃範囲が不確かであるとの指摘がある(半径20kmの射程範囲は短距離弾道ミサイルにおいてではないか?)。この記事を深く再考したのが次の記事だ。

 

 

 この記事では実証されていない、あくまで数値上の話としながらも20km程度の射程内は「撃墜可能」と結論を出している。当たっているのか外れているのか素人には分からないが、少なくとも前記事の半径20kmの防衛範囲をクリアしていると筆者は判断している。どちらが正しいのかは素人目にはまったく分からないが信頼できそうな説明ではある。

 


 上記に記載したwikipediaミサイル防衛の是非に関する議論の章の中で、「元米国防長官のウィリアム・J・ペリーは、米国のミサイル防衛システム(MD)には技術的問題があり「税金の浪費」になるだろうと指摘している(http://japan.hani.co.kr/arti/international/23570.html)」とある。これはどういった意味なのだろうか。調べたところ、韓国の左派日刊新聞、ハンギョレの上の記事がヒットした。記事によると「本物の弾頭と模擬弾頭(Decoys)を識別できない米国ミサイル防衛システムの根本的限界」が存在するとある。もちろんこの記事で想定されてるのは韓国地でのTHAADの運用に対してだが、日本のPAC-3はどうなのだろうか。THAADとPAC-3の違いは迎撃する高度の違いらしいが、この点について踏み込んだ話は今までのブログの中にはなかった。

 

 結局のところ、前回の記事のまとめに突き当たる。起こってみなければ分からない。少なくともどの記事もPAC-3の単体の性能の面での話でそれまでの実施段階でどのようなフォーメーションが組まれるのか。万が一のアクシデントがどのように対処されるのかまでは想像できない。不安だらけである。万が一の戦争の危険に誰が責任を持てるのだろうか。平和の国、日本が戦地にかわりつつある現状に心を痛めずにはいられない。少なくとも今言える事は、このままいけば東京オリンピックは最悪の印象を全世界に与えるだろうということだろう。

 

 渡部夏樹

 

 

ミサイルが落ちてくる

昨日、北朝鮮が水爆実験に成功したと大々的に報じられた。このところ北朝鮮の物騒な話題が多い。8月29日の弾道ミサイル発射から数日のことなので、より報道に熱が増しているようだ。安倍首相は件のミサイル発射を”我が国に向けて”と発言したものだから、ネットではたちの悪い受け取り方をしている人が大勢見られる。金正恩からするとそう報じられて嬉しかっただろう。実際、不安を煽るには大成功だった。「博士の異常な愛情」の画像検索結果

 

 

 北朝鮮のミサイルを想定した避難訓練というものが各地で行われているとの噂を耳にする。どのような訓練なのだろうか。一度受けてみたいものだ。少し前にネットで出回った画像で野原に突っ伏すおばさんの姿があったが、あんなものを見ると碌でもない訓練だとは想像できる。もしミサイルがこの国に落ちたということになれば、それは開戦が宣告されたということを想定しているのだろう。火災や津波地震といった自然災害ではある程度被害を予測できるし最小に抑えることはできる。火災は火の出処から、津波は海抜何mのところへ、地震は頭上の落下物から避難すればいい。経路や準備物も想定できる。勿論、行政や自治体も慣れている。では、ミサイルはどうだろうか?自衛隊の基地から離れればいいのだろうか?その答えはあべりょうさんの『核攻撃サイバー』を聞けばわかる。

 

 

youtu.be

 

 この曲は核爆弾を想定しているが、弾道ミサイルだろうと話はそう変わらないだろう。なぜなら、どちらにせよ同じノドン弾道ミサイルで打ち込まれると仮定した場合6〜11分以内に頑丈な場所に避難することになる。が、ミサイルから身を守れるほどの場所がどこにあるのだろうか。ましてや、高齢者や身体の不自由な人たちはどうなるのだろう。行政はどう動くのだろうか。考えているのだろうか。

 

 避難訓練を実施するとして、あらゆるケースを想定しなければならない。まずミサイルがどのように落ちてくるのか。それは迎撃され破壊された残骸なのか。それとも、そのまま迎撃できずにそのまま落ちてくるのか。それによって被害も混乱も大きく変わる。

「ノドン」の画像検索結果

 上の画像を見ての通りミサイルは大気圏にでてからほぼ垂直に落ちる。避難訓練で想定されているようなケース、イージス艦の迎撃範囲を超えて、都心にミサイルが落ちてくるような場合、どうなるのだろう。例のPAC-3が撃ち落とすとして、爆破した飛来物がどのように落ちてくるかなんて素人には想像もできない。が、ネットを隈なく探しても「避難訓練を実施すべし!」というような人間の意見に具体的な話はいっさいなく、感情的で理に沿ったものがないのに驚く。もっとも、そんなこと事が起こるまで誰もわからないし、予測もできない。

 

 やらないよりやったほうがマシだろ!との意見もあるが、逆にそういった義務的な行動が被害を拡大させる可能性はある。例えば、都内の人間がJアラートが鳴った瞬間、地盤の固い地下、例えば地下鉄に逃げ込んだらどうなるだろうか。けが人どころか死傷者がでるかもしれない。場合によってはミサイルの被害以上の怪我人がでることもありえる。体育館や公民館に身を寄せ合ったところで、ミサイルが落ちてきて倒壊したら、それこそ多くの犠牲者がでる。避難訓練のやり方が間違ってるとか間違ってないの話ではなく、人を殺すためのミサイルから多くの人が身を守れる場所なんてどこにもないのではないだろうか。

 

 考えれば考えるほど、何から何までナンセンスすぎるのだ。もし、避難訓練で想定されてるような事態になったら、それこそどこにいようとどんな奴だろうと運が悪いやつは死ぬ。そんな残酷な社会が待っているだけだ。

 

 

 

 

渡部夏樹 

実家にて

 先日、他界した祖母の四十九日のため、実家に帰省した。雨に見舞われながらも、納骨を無事にすませ、顔なじみの親戚やお世話になった郷里の方々と会食した。バタバタと1日が過ぎていった。

 

 遠方の親戚や姉と姉の彼氏がぽつりぽつりと帰っていった翌日の夜、がらんとしたリビングに僕と父さんだけが残った。タバコを燻らせ、ビールを飲みながら、夜更けまでふたりで会話する。それは僕の実家での恒例の過ごし方であり、一番の楽しみでもある。だが、今回に限って、僕はなんとなく気が弾まなかった。何かを口にしようとすると、都会の暮らしや金銭関係の愚痴になりそうではばかられたからだ。最近読んだ本の話をしてみた。が、そうそう続かなかった。内容が頭に入っていなかったのだ。

 

 「近松門左衛門の『女殺油地獄』って知ってるか?」ふと思い出したように父さんが話し始めた。「NHK教育テレビジョン……今でいうEテレでな、夜の9時から『芸術劇場』ってのがやっててな。毎週見てたんだ。その中でも印象深くてな。兄貴の境遇と重なってて……」それから紡いでいた記憶をほつすように、ゆっくりと父さんは語り始めた。私生子だった伯父のこと、貧困に喘いだ幼少の頃のこと、祖母の兄弟、曾祖父母のこと、僕の家族の歴史について。暫くして、父さんはどこからかペンと紙を持ってくると、位牌を見ながら家系図を書いてみせてくれた。神妙な心地だった。話を聞きながら、心のなかで泡沫のように浮かんでは消えていく多くの命を僕は感じていた。「今の映画やらドラマを見ていて”私と貴方”の目線でしか人生を考えていない物語が多いよ。なんだか寂しいよな」そう言って父さんは話を終わらせた。 

 

 東京に帰る電車のなかで、昨晩の父さんとの会話を思い返していた。Twitterを開くと、あらゆるヘイトが飛び交っていた。バニラエアでタラップを自力で登った木嶋氏、KODAIRA祭での百田講演会中止後の梁英聖氏およびARICに対する心無い言葉に胸が痛くなる。レイシストは対象の人間を一括りに絶対悪だと決めつける。 どうして人の生をこうも軽々しく罵倒できるのか。僕には永遠に理解できない。あらゆる生の歴史がある。良い素行の人もいるし悪いそれの人もいる。当然のことだ。だが、個人の立場の”良し悪し”を人の子の誰が弁別できようか。人の立場を理解しようとせず、自分を棚に上げて、一方的な”正義”によって断罪する。それは悪ではないかないだろうか。そんなことを思った。

  渡部夏樹

 

 

 

 

 

 

 

 

「共謀罪」の危険性 ~一表現者としての抵抗~

 現在、「組織的犯罪処罰法改正案」(「テロ等準備罪」法案)が参議院本会議にて審議されている。先月19日に衆議院予算委員会で可決され、その翌週には衆議院本会議でも可決された。ここ数週間、毎週のように各地で抗議デモが行われている。上記の法案についてはこれまで既に多くの報道がなされているので、ここではなるべく端的に記す。

 

共謀罪」とは?

 「共謀罪」とも表現されるこの法案は、2020年の東京五輪を控えたテロ対策を目的としており、日本政府は国連の国際組織犯罪防止(TOC)条約を締結するために必要な法案としている。組織的な重大犯罪を未然に防ぐという名目で、準備段階でも処罰の対象に含める、というものだ。しかし、この条約はそもそもテロ対策のためではなく、マフィア対策としてできたものである。またテロを取り締まるためには現在の法律でも十分対応できるという指摘もある。(ハイジャック防止法、テロ資金供与処罰法、サリン等防止法など)

 

何が危険なのか?

 まず、捜査範囲が拡大する恐れがある。捜査対象になる犯罪は277に及び、それにはテロに関連するとは言い難い犯罪も多く存在する。(著作権法種苗法モーターボート競走法文化財保護法など)また、どこまでが準備行為にあたるのかも非常に曖昧である。(5月29日の国会答弁で金田法務大臣は、「組織的犯罪集団だと確実に認められなくても、その嫌疑が客観的にある場合、捜査を開始できる」と述べている。)解釈によっては当局による恣意的な運用も行われる可能性が高い。

 

 

 

 私は今、音楽活動、また学問に携わる一人の人間として、この法案には懸念を抱いている。反対派から「現代の治安維持法」とも叫ばれているように、表現の自由内心の自由を脅かしうる法案であるのだ。連日のニュースでは、国連の特別報告者であるケナタッチ氏や、米中央情報局(CIA)のエドワード・スノーデン元職員も、この法案に対して危機感を強めている、と報道している。

 

 多くの人が集まるライブハウスで音楽を演奏すること、また政治的・社会的な歌詞を書くこと。音楽活動において当たり前であるこの自由まで、もし捜査対象になってしまうとするならば、私は全力で抵抗する。なぜならロックとは、音楽であると同時に抵抗そのものであるからだ。50年代、黒人差別がまかり通る社会状況の中でロックンロールが生まれたように。70年代後半、経済格差や増加する失業率への不満からパンクが生まれたように。

 

 また最後に、ここ数週間の間に私がtwitterなどで発言した内容について、様々な意見や批判を頂いた。それらについても反論を含め私の持論を述べたい。

 私は音楽での表現内容について(主に歌詞)は特にこうあるべき、というような考えは持っていない。政治であってもいい。愛であってもいい。下らない日常生活であっても良いのだ。ただし、差別的なもの(もしくはそれを扇動するもの)や個人の権利を侵害するような内容のものがもしあるとするならば、私は否定するだろう。音楽が誰かを悲しませたり苦しませたりするものであってはならないからだ。

 しかし、これは日本における表現活動全体に対して言えることなのだが、全ての表現者はもっと社会に対して自覚的になるべきだ。共謀罪法案に関しても、SNSでもなんでもいいから、もっと積極的に発言することが望ましいと思う。例えばアメリカでは、ブルース・スプリングスティーンやデヴィット・バーンをはじめ、多くの音楽家や俳優、芸術家がトランプ政権に対して批判的な意見を表明している。しかし残念なことに、ここ日本では諸外国に比べ、そもそも国民生活の中に社会運動が成り立っているとは言えない状況であるから、それが悪い意味で芸術表現に反映してしまっているのだ。政治的発言をしたり、抗議デモに行くだけで「過激だ」とか「危険だ」とか「宗教的だ」とか「偏っている」という捉え方をされてしまうのは、それを如実に表している。(欧米をはじめ諸外国では、政治や社会に不満があれば路上に出て抗議デモをする、という運動が根付いているのに対して、日本にはそれがない。)

 

 先月19日に私も参加した国会前の抗議活動で、主催側の女子学生がスピーチでこう語っていた。「権力に振り回され、声をあげることさえ難しくなってしまうような、そんな社会を子どもや孫の世代にまで残したくない。」 また、昨年10月に夏樹と参加した、五反田の「ゲンロンカフェ」に講師として来られていた、映画監督の深田晃司氏は「今、日本の文化は焼け野原状態である」と仰っていた。ーゼロ。つまりそういうことだ。だが、やるしかない。声を上げなければ、民主主義は腐敗する。(もしかしたら既にそうかもしれないが。)日本の約半数を占めるサイレント・マジョリティが政権の思うがままに監視され、そして後戻り出来なくなる前に。

 

終わっているなら、始めるしかない。

 

 

( H.I )

エードリアン・トミーネ『Sleep Walk』『サマーブロンド』再読

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 ひとりで部屋の中にいて、酷く寂しくなるときがたびたびある。今もそう。取立てて何もすることがなく、本を読んだり、ギターを弾いたりするのも億劫に思える。だけど、焦燥感が渦巻いている。

 

 ふと思い出して実家から持ってきたエードリアン・トミーネの漫画を開く。エードリアン・トミーネはアメリカの漫画家兼イラストレーターで本国では絶大な人気を誇っている作家だ。雑誌のニューヨーカーの表紙や、バンドのヨ・ラ・テンゴ、ウィーザーのアルバムジャケットのイラストを描いている。彼の描く人々、鬱屈でベタついた日常を生きる人々が好きだ。言いようのないコミュニケーションの不安_取るに足らないけれど致命傷になりえるもの_を繊細に描く彼の作風はこのところの日本の漫画にはないものがある。

 

 彼の作品はレイモンド・カーヴァーの作品を引き合いに出されるそうだ。確かに似ている。物語を解決するようなオチもなく、突然カットアウト、もしくはフェイドアウトして終わるところは、そっくりかもしれない。だけど、決定的に違うところがある。カーヴァーの描く”鬱屈”は、熟年の渇きであるのに対して、トミーネの描くそれは若年のグズグズした惨めさだ。こうとも言えよう。カーヴァーの作品は物語が初めから終わっているが、トミーネの作品はこれから始まるのである。トミーネの作品は物語の序章であり、どこに行き着くかも主人公自身が決定できる余韻を残している。その若さゆえの自由の残酷が物語を彩っている。

 

 若いからなんでも出来る。なろうと思えばヒップスターにだってなれる。それはほとんど嘘だ。なぜなら、夢や目的をもった人生を送れる若者なんて、ほとんどいないからだ。それは若かろうが老いていようが同じことだ。若さとはただの無知だ。無知ゆえの純朴さが、活力を、生活の彩りを与えることはあっても、惰性の生活の重力はそうそう軽くはない。だけど、できもしないことを夢想してぐずぐずと生きていても、いいのだ。と、僕は思いたい。孤独や惨めな嫉妬の中でも、ささやかな楽しみをよりどころに今日を生きることができる。そして、案外、その孤独を抱えているのは自分ひとりではないことに気づくと、将来を悲観することもなくなるかもしれない。

 

渡部夏樹

Tokyo Rainbow Pride 無自覚な偏見

 5月7日、Tokyo Rainbow PrideというLGBT(性的マイノリティ)の差別、偏見のない社会共生を訴えるパレードが代々木公園で開かれた。とても盛況していたようだ。僕(渡部)は参加しなかったのだが、パレードを行進したひろ君から詳しい話を聞いた。ひろ君はヘテロなのだが、Ally(『ストレート・アライ=LGBTの味方』という意味)として応援してきたそうで、明るく前向きな運動でとても楽しかったと話していた。ハフポストの記事をチェックすると、どの参加者も明るい笑顔で写真に写っていた。性のカミングアウトは個人にプレッシャーを与えがちだが、こうして笑顔で社会に訴えられることはとても素敵だと思う。一番望ましいデモの形が実現されているように感じた。

 

諸説はあるがLGBT団体の虹色のシンボルは”虹の彼方に”からインスピレーションを受けていると言われている。オズのまほうつかいの主題歌であり、主人公のドロシーを演じたジュディ・ガーランドバイセクシャルだった。

 

 自分がLGBTに対して偏見を持っていることに無自覚だったと気付いたある出来事がある。それを語ろうと思う。

 

 行きつけの銭湯で知り合ったSという黒人の友人がいる。湯船にひとりで浸かっていたときに話しかけられて、それから自然に仲良くなった。たまに連絡を取り合い、待ち合わせて一緒に銭湯に入ったり、ふたりで夕食を食べたりする。

 

 彼と知り合って間もない頃だった。従兄弟に彼のことを話したら「よく知りもしない人とよくそんな仲良くなれるもんだな。彼は君に気があるんじゃないか?襲われないように気をつけなよ」と言われた。そのときは、ははは、そんなまさかと笑って返したのだが、それから彼と会うたびに、彼のしぐさが気になってしまった。お互いそこまで気が合うわけでもないのに、これだけ人懐こいってのは、もしかしたら……なんてことを考えていたのだ。

 

 ある日、Sと銭湯に入ったときに、僕が腕をくんで考えごとをしていると、後ろから彼に肩を揉まれた。僕の胸はドキッと音をたてたと思う。彼の股間が僕の背中に触れていたのだ。そのとき彼は微笑みながらこう言った。「リラックス!」その言葉を聞いたとき、彼がその気でないということを確認して安堵した。その安心感のなかで僕はハッとした。女性からしたら男性と友人として付き合うのって、とても怖いだろうな、と。男性の性の優位性を自覚すると同時に、さまざまな性に対する視界が開けた。自分がどれだけLGBTに対してどれほど重い偏見を持っているか。LGBTの人がどんな気持ちでヘテロとコミュニケーションしているか。そのときになってさまざまな性の問題の溝の深さを悟った。”SEXの嗜好の違い”なんて浅はかな性の認識しか持っていない自分が心底嫌になった。

 

 

 多様な性を考える上で、ヘテロである僕らが第一に考えるべきことは、コミュニケーション方法だと思う。僕らはいかに異なる性と向き合うべきか。同性に恋されたら”怖い”、”気持ち悪い”、”襲われるかもしれない”などの偏見は、LGBTとのコミュニケーションが積極的に語られない社会によって起こると僕は考える。僕も従兄弟も同性愛肯定派だが、自身の身になって友人の身になって考えることをしない点、考えが浅はかだったと思う。僕らのような偏見に無自覚な人間こそたちが悪いのかもしれない。フェイス・トゥ・フェイスでLGBTの人と接すること。カミングアウトできる社会を一緒になってつくること。そういった機会が少しずつ社会に広がることで、偏見は少しずつ解消されるのではないだろうか。その点でTokyo Rainbow Prideの成功はLGBTの自立的な社会への明るい兆しになったと思う。

 

渡部夏樹

けものフレンズ

天気がいい。部屋に射し込む日の光が優しい。風も穏やかだ。鳥のさえずりが聞こえる。僕は相変わらず布団の上で横になって、換気扇の音を聞いている。

朝、空腹の胃にスコッチを混ぜたコーヒーを流した。その所為だろうか。さっきまでの僕は気がどうかして、酸欠で悶えていた。怖かったのだ。部屋を囲む本棚の視線が。

最近、けものフレンズを見る楽しみに安心感を覚える。かばんちゃんやサーバルちゃんとジャパリパークを探検する25分が待ち遠しくて仕方ない。これほど中身のないアニメはないとの意見をよく耳にする。確かに同じけものアニメでもマイリトルポニーとは雲泥の差があるだろう。しかし、言われずもがな過半数けものフレンズファンはそれを自覚している。それでも、このアニメの虜になって、「すっごーい!」「たのしいーい!」「きみは〜がとくいなフレンズなんだね!」を連呼するに至る"フレンズ"は着々と増えているようだ。その事実は一体何を物語っているのだろうか。(萌)アニ豚がまた流行りにのっかっているだけと考えるのは安直だろう。アニメの画像を見てわかる通り、フルCGのキャラ絵図に可愛い・愛くるしいの延長線上にある"萌え"要素を感じた人間がいるとは、僕にはまったく思えない。事実、萌え絵図だったゲームアプリ版の吉崎観音(ケロロ軍曹の作者)のデザインでも漫画版のキャラ絵でもまったくの不評だったわけで、これは先に流行った幼児性萌えアニメ"ごちうさ"とはまったく違った受けとられ方をしているのがわかる。

物語は基本的に三幕構成によって構築されている。物語を充実させるにあたって不可欠な要素は第二幕、三幕にあたる『対立、衝突』そして『解決』である。主人公が立ちはだかる困難を克服し、目的を完遂することで見者は感動を覚える。

日常系萌えアニメというのは『対立、衝突』を極力排する。視聴者は主人公の成長、克服を求めていないからだ。その代わり、(オタク的な)"笑い"だったり"萌え"によって物語を充足させる。キャラクターの愛くるしさを視聴者は楽しむのである。だから、日常系萌えアニメは物語性を排して登場人物のキャラクター性に重点が置かれている。しかし、けものフレンズの"中身のなさ"は日常系萌えアニメの比較にならない。かばんちゃんの存在の謎をつきあかすロードムービーという王道的な形式を取ってはいるが、物語の勾配がないばかりでなく、充足的な笑いの要素も萌えの要素(登場人物はすべて女性ではあるが)もほとんどないのである。では、何故、このような異形の物語が多くのファンを生んでいるのだろうか。その答えはすべて『すっごーい』『たのしいーい』に尽きる。

現代の日本人は当たり前であることを要求されすぎていて、承認欲求に飢えていると僕は考察する。'02年から施行されたゆとり世代の教育方針は'03年にリリースされたSMAPの"世界に一つだけの花"の「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」という歌詞に包括されるだろうか。ゆとり教育の幕開けと共にこの曲は大ヒットを生んだ。しかし、結果的にゆとり教育の"誰もが素晴らしい"という幻想は競争社会をいっそう加熱させたと思っている。誰もが特別、Only oneであるとの社会意識は特別であることのハードルを格段に下げてしまったのだと思う。今月号のPOPYE('17 MARCH 二十歳のとき、何をしていたか?)の記事でピエール瀧氏が話していたことだが、ゆとり教育以前の『所詮、おまえみたいなものには価値がない』という前提の上での、そこから抜け出したいのなら努力しろ、ちゃんと向き合え、そうすればチャンスはあるかもよ、という教育は誰もが平等に"無価値な人間"で許されたのに対して、ゆとり世代では"誰もが平等で価値があり丁寧にパッケージングされている=特別な人間"である(べき)という意識を強要されたのである。元々、ダメな人でも大丈夫だよというゆとり教育の認識がダメな人間なんていないよ、ダメな人間なんて(社会には)存在してはいけないよ、自分で特別=普通であることを放棄するのは自己責任、という認識に変容したのだと思う。誰もが特別なことが普通な社会では、誰もが"ダメじゃない普通な人"であるために競争し、普通が普通以上に価値がない故に、承認欲求を満たせないのである。けものフレンズがファンを獲得したバックグラウンドはここにあると思う。けものフレンズの世界=ジャパリパークにはゆとり教育桃源郷が広がっていたのである。自分の出来る小さな小さなことを『すっごーい』と褒めてくれる、『たのしいーい』と喜んでくれる。普通に出来て当たり前と思わないでくれる友達に支えられている安心感によって、視聴者はけものフレンズに魅了されるのである。そして僕が取り憑かれたように見ているわけもそこにあるのだと書きながら気づいた。社会のレールから一度でも外れたら死に物狂いで普通に戻らなくてはいけない。死ぬ気で頑張っても普通以上の何の対価も得られない社会。そんな社会の切迫感の中でけものフレンズはとてもとても優しいのだ。 渡部夏樹